大地震に遭遇したら...

学内で大地震に遭遇
①東京?世田谷区
学内
記念講堂
震度不明 放送研究会の番組発表会のリハーサルを行うために、授業のない日であったが大学へ登校し、PCのセッティング、機材の設営、会の進行の確認などを行っていた際に大きな揺れに見舞われた。記念講堂には、舞台上に緞帳や吊り下げ照明など落下の危険性のある物が頭上にあるため、舞台で配線の養生をしていた自分は周りの人と声を掛け合って、ひとまず舞台上から客席側に移動し揺れが収まるまで頭を抱えてじっとしていた。揺れが収まってから,サークルの仲間の無事を確認した。そして再度揺れた際に,機材が倒れたり移動したりしたことによって機材の電源ケーブルが切れて発火しないように消費電力の高い機材のコンセントを抜いた。記念講堂の外へ出ると,職員の方の指示で図書館や禅研究館の前の空間へ避難するよう言われたので移動した。ふと北門方向を向くと,8号館の解体現場の足場や囲いが一部崩れていた。確認しに行きたいが,余震が来てさらに崩壊してしまえば自分の身にさらに危険が及ぶので,その場にとどまった。
サークルの幹事長が趣味で持っているラジオで地震の詳細を仲間に教えてくれて,どうやら東海地方で最大震度7の巨大地震が発生し,以前から警戒されていた南海トラフ地震が発生したと思われるそうだ。津波が発生し,到達状況は不明だが津波警報が出ているので相当な被害が見込まれるそうだ。サークルには近い親戚が東海地域に住んでいる人がいないようだったが,卒業した先輩が名古屋で就職したため心配になりLINEをしたが,回線が混雑して,うまく送信することができなかった。しばらくして246からは救急車のサイレンが聞こえたが,通り過ぎるのに時間がかかっていて渋滞が発生していることがうかがえる。電車も動かないようであったし,徒歩で帰るにしても20㎞近く渋滞した道を歩くことになったり,荒川や綾瀬川などを橋で渡らなければならず,渡るのが困難だと思ったので,食料もあって寝る場所もある大学にとどまることにした。保護者へは,災害伝言ダイヤルを使って無事を知らせた。
②東京?世田谷区?
学内?
震度5弱以上
(緊急地震速報)
7月22日、10時10分に南海トラフ巨大地震は発生した。この時、私は東京の大学でテストを受けていた。テストに集中し静かだった教室は地震が長続きするほど少しずつ騒がしくなった。この地震で、東京では震度5弱の揺れを感じ、東海地方は震度7を観測したところがほとんどであった。テストは中断され、通信や交通網が混乱する中、私はたまたま自転車で登校していたためすぐに自宅に戻った。家ではテレワークしていた両親と弟が待っており、家族の無事は確認できた。自宅に大きな被害はなく、強いていうなら棚に飾っていたフィギュアが倒れたくらいであった。
東海地方では地震に恐怖している暇もなく、震源地が本土に近かったため、地震発生後3分後に早くも1?2mの津波が発生した。最初は堤防に阻まれたが、徐々に津波が高くなり、10分後には街に侵食し始めた。2011年の悲劇はまだ風化されておらず、沿岸部の人々は高台や津波避難所に避難していた。しかし東日本大地震より津波の到達時間が早く、逃げ遅れた人もいた。被害は大範囲に及んだ。
地震により地盤が脆くなり、各所で液状化や古い建物の崩壊が起きていた。これは東京も例外ではなく、長周期地震動により高層ビルの崩壊の危険性が増えた。そのため避難所には多くの人々が訪れた。南海トラフ地震により、日本の7割の人々が暮らす場所が一度に危険な地域と化したのだ。インフラや電波、ライフラインの停止、感染症など様々な二次災害が発生した。日本の経済面も大きな被害を受け、避難所に支援がなかなか届かない不安な日々を過ごした避難民も長期間発生した。この南海トラフ巨大地震から5年が経過したが、復興活動はまだまだ続くであろう。
③東京?世田谷区
学内
3-406教室
震度不明 7月14日(月)の4限終わり、3号館の3-406教場で被災した。直後に大規模停電が発生し、大学構内の照明は非常灯のみになった。冷房が消え、室内の温度は徐々に上昇していった。不安になり、教場の近くの自販機を見てみるも、停電対応仕様ではないようですぐには使うことができなかった。仕方なくトイレの水道で水分を補給しようとするも、断水が発生しているのか水は出なかった。結局、大学の備蓄物質を頼ることになった。試験期間だったため、構内にいた学生の数がふだんほど多くなく、備蓄物資を十分得られたのが幸いだった。
その後、発電機を使って冷房を効かせた部屋に集められ、そこで一夜を明かすことになった。携帯していたラジオをつけてみると、徒歩で帰宅しようとしていた帰宅困難者に、熱中症患者が続出しているとのニュースが流れてきた。自分もそうなっていたかもしれないと冷や汗を流した。
④東京?世田谷区
学内
定期試験教室
震度5強 2025年7月20日 14時30分、大学で期末試験を受け終わり帰宅しようと教場を後にしようとした瞬間に南海トラフ巨大地震が発生しました。駒澤大学のある世田谷区は最大震度5強で、教場にいた人のスマホから緊急地震速報が鳴り響く中、約15秒ほど揺れていました。揺れは次第に収まり、緊急避難場所に指定された駒沢公園への避難を呼びかけるアナウンスが入りました。
この地震により、田園都市線を含む都内の公共交通機関が運休となり、大量の帰宅困難者がバスやタクシーの乗り場で行列を作っていた。駒沢公園で待機している間に家族とLINEで連絡を取り合っていたが、全員帰宅困難に陥っていた。自分は歩いて家まで帰る事にしたが、大学で一晩過ごすという友人もいた。
2時間30分ほどかけて帰宅しNHKで現在の状況を確認すると、東海地方や近畿地方、四国地方にかけて巨大な津波が襲い甚大な被害を及ぼしている状況を目の当たりにした。
⑤東京?世田谷区
学内
3-504教室
想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月9日(金)19時30分のことです。毎週恒例のサークル定例会が終わり、3号館の504教場で仲間と談笑していたところ、各々のスマホから緊急地震速報を示す大きな警報音が鳴り響きました。すぐに机の下へ隠れたためけが人はいませんでしたが、Aくんがゆっくりと食べていたカップ麺は床にこぼれてしまいました。
揺れがおさまってから、Bくんが「駒沢は震度5強であった」と震えながら伝えてくれました。窓から外をみてみると、虎扑nba,虎扑足球のあたりは一部停電しており、公園で散歩をしていた犬もパニックになっています。揺れから20分ほどたった19時40分ごろ、6限までだった友人CくんとDくんが、たくさんの食糧とともに合流してくれました。彼らによると、1階のコンビニは地震に伴い臨時で営業時間をのばしているとのこと。良い友を持ったものです。みんなの気持ちが少し落ち着いたところで、情報収集をはじめることにしました。駒澤大学には災害用の無線機器があるため、電波が止まることはありません。大学付近の被害状況を調べる班、地震について調べる班、そしてそれぞれの実家地域の被害を調べる班にわかれ、調査を進めました。私の実家がある調布では震度6弱を記録したそうですが、災害用伝言板の171を通じ家族の安全を確認できました。
7限がはじまる前だったため何名かの学生や教員がエレベータに閉じ込められてしまったようですが、1時間ほどたった後に救出されたそうです。

 

鉄道?バスで立往生した
⑥東京?世田谷区
東急東横線
三軒茶屋~池尻大橋間
震度5弱以上
(緊急地震速報)
月曜4限の授業が終わってから、直接帰宅しようとしたものの、北門が混んでいたので図書館に寄って本を読むことにした。しかし、疲れたので30分ほどで図書館を出て帰宅することにした。そして、いつも通り駒沢大学駅から電車に乗った。しかし、三軒茶屋駅を発車した直後、携帯電話が激しく鳴動し、考える間もなく列車は急停車、車内の照明が落ちて非常灯のみが点灯した。暗い中車内が大きく揺れ、乗客の悲鳴が聞こえる一方、多くの客は冷静に揺れが収まるのを待っていた。ついに首都直下地震が起きてしまったのかとこの時点では勘違いしていた。
親に連絡をしようと思い、LINEをしたが送信できない。試しにTwitterを開こうとしたが、画面上には読み込み中の文字のみが表示される。ネット通信がダウンしてしまっていた。ダメもとで電話を発信したが、やはり繋がらなかった。家は下総台地上にあるので大丈夫だと信じ込むことにして、気持ちを落ち着かせることにした。
発災から30分が経過した。依然、ネットは繋がらない。断続的に余震が、その度に不安が積み重なっていく。今居るトンネル内は安全なのか、安全に車両から脱出できるのか、今晩の食事は、今日寝る場所は、ということばかりが脳内を巡る。それからしばらくして、車掌が避難誘導の案内を呼び掛けにやって来た。車掌曰く、今日中は電車が動く見込みはないとのこと。予想はしていたが、やはりしんどい。
避難誘導に従い、電車内から脱出する。最後尾の車両からはしごを用いて線路上に降りた。ギリギリ三軒茶屋駅の方が近い地点で緊急停車したので、地震前に電車で乗ってきた線路を、係員の誘導に従い三軒茶屋駅に歩いて戻る。
三軒茶屋で地上に出ると素で空が暗くなっていた。都内とは思えないほど星空が綺麗に見えた。なぜなら停電していたからだ。歩いて柏市の家に戻ることも考えた。しかし、過去に出来心で東京駅を起点に歩いてみた際に北松戸駅でギブアップした経験を思い出し、また二次災害に巻き込まれる懸念もあったため、帰宅を断念して駒澤大学に戻ることにした。スマホのライトで足元を照らす。19時に大学に戻り、友人と再会し無事を喜ぶとともに、この地震が首都直下地震ではなく、南海トラフ地震であることを知る。サークルルームで寝泊まりをし、家に帰宅したのは2日後であった。
⑦東京?新宿区
JR中央線
四ツ谷~信濃町間
震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月9日(金)、9時40分頃。2限に行われる鈴木重雄先生の地図学を受けるために、総武線中野行に乗車していました。
四ツ谷駅を出発した直後に、自分のスマホはもちろんのこと他のお客さんのスマホまで、一斉に緊急地震速報が鳴り出しました。すると電車が急ブレーキをかけてトンネル内で停止してしまいました。列車が止まると揺れを感じるようになりました。揺れは大きくトンネル内で閉鎖的な空間ということもあり、揺れが収まるまで恐怖を感じました。座席に座ることができていたので、揺れていても自分自身は安定した姿勢をとることができました。
揺れが収まり地震について調べようとしたところ、アクセスが集中していることやトンネル内ということもあり、地震についての情報を得ることができませんでした。
車内放送があり、安全確認がとれるまで運転再開ができないとのこと。
地震発生から20分経過した10時頃、再度車内放送があり電車から降りて線路内を歩行し信濃町駅まで行くという案内がありました。先頭車両がトンネルを出た部分にあったので、先頭車まで移動して線路に降りた。5~10分ほど歩き信濃町駅に10時20分を過ぎた頃に到着しました。
ひとまず安全な場所に避難しようと考え、駅を出てすぐ近くにある明治神宮外苑に移動しました。それから10分ほど歩き、外苑内の大きなグラウンドにとどまることにしました。スマホをふと見ると11時になっていて、授業があれば遅刻だなあと思いました。通信が多少改善されたのか、地震の詳細について調べることができました。東海沖が震源でマグニチュード8、最大震度が6強、東京でも震度5強を観測したとのこと。12時になりお腹が空いたので、家から持ってきた弁当を食べることにした。周りにいる人の話を聞く限り、周辺のコンビニはどこも品薄になっているそうだ。
16時まで外苑で待ってみたものの、電車がやはり動きそうになさそうなので一時滞在施設に指定されている東京体育館に移動してみることにした。館内には多くの人が身を寄せていたが、水と非常食を受け取ることができた。今日は一晩ここで夜を明かすことになりそうだ。
⑧東京?渋谷区
JR山手線
渋谷駅ホーム
震度不明 渋谷駅は、工事中であり、ほかの建物より耐震構造が弱いと思われる。そのため、強い地震が起こると、駅舎ごと倒壊する可能性がある。この際にがれき等に埋もれる可能性がある。また、これにより電車の運行がストップし、先に進むことも大学に戻ることもできない。渋谷駅の1日利用者は、約280万人ほどである。夜7時頃は、帰る人たちがたくさん利用する通勤ラッシュである時間帯。これらの人たちは、駅舎から避難せざるをえない状態になる。そのため、ハチ公前などは人でごった返す状態になる。ただ、この時の避難者の心理状況としては、早く外に逃げたいという心理になる。避難者がその心理になると、押し合いになる、「将棋倒し」が発生する可能性がある。わかりやすい例でいうと、「韓国で発生したハロウィン雑踏事故」である。この時も人が多すぎて、途中で押し合いになったところで、バランスを崩し、将棋倒しのように、前の人に覆いかぶさるように倒れてしまって、窒息死してしまったという事故が発生した。このようなことが起こる可能性がある。
またハチ公に避難すれば、倒壊の被害にあることは抑えられるが、その付近には大勢分の食糧や外で寝る場所も確保することもできないため、寒さに凍えたり、食料を得られないため、体調を崩す人ができたり、衛生面的にもよろしくないと予想できる。しかしながら、渋谷区の防災ポータル(https://bosai.city.shibuya.tokyo.jp/hinan/hinanbasyo-map.html)よると、渋谷駅周辺は「地区内残留地区」に指定されている。渋谷は、谷という地形上細い道がたくさんあり、渋谷駅構内は工事中であるために倒壊する可能性があるため、本当に残留していてよいのかどうかというのも、少し不安が残る。
発災した当日は、渋谷駅を経由する鉄道は、すべてストップしており、翌日以降の運転再開が見込まれた。その報告を聞き、広域避難場所ではなく、安全が確保された避難場所にそれぞれが向かって、発災当日は過ごした。発災翌日の昼頃から順次鉄道が運転再開すると情報が入ってから、避難していた人たちは、「これで帰れる」と思い、避難者全員が拍手し、泣いている人もいた。
 今回は通勤ラッシュの渋谷駅で大地震が発生したという予想したが、いかに慎重に一人一人が地震後の二次災害のことを考えて、行動するかが自分の命も守り、他の人の命も守るのではないかと考える。今回の課題のように、自分が通学する箇所がどういう場所なのか、どういうときに起こったら一番被害が出るのかを考えることで、少しは対策?心構えをすることができるのではないかと改めて考えた。渋谷駅は、現在工事中であり、ほかの建造物よりも比較的揺れに弱いと考えられる。先述したように、渋谷駅周辺は地区内残留地区に指定されているため、多くの人が駅周辺に滞在すると考えられるため、そのようなこともその場にいる人たちが頭に入れながら行動することができれば、自分の命、他社の命も救うことができるのではないかと考えた。
⑨東京?世田谷区
東急田園都市線
駒沢大学駅付近
震度5弱以上
(緊急地震速報)
7/8(火)18時45分、5限の授業を終えた私は東急田園都市線に乗車し帰宅途中であった。駒沢大学駅を出た後、突然乗客のスマートフォンから緊急地震速報の警報音が流れ、電車は非常停止した。電車の中でもはっきり感じられる程の揺れの後、車内は停電のため照明が切れ、空調も停止してしまった。車内は騒然としていたが、車掌から安全確認が済むまで待機する旨の放送が流れたため、ひとまず電車の窓を開けて次の指示を待つことにした。。次第に車内の気温が上がり、飲み物の類を持ち合わせていないことを後悔することとなった。地下線内ということもあり携帯電話の回線はつながりにくく、なかなか情報を得ることができなかったが、かろうじて南海トラフ型地震であることと、東京は震度6強であること、沿岸部には大津波警報が出されていることが分かった。発生から1時間ほど経ち、電車から降りるよう案内がされたため、順番に降車が始まった。線路上を歩き、駒沢大学駅まで向かった。駅員の指示で地上に出たのは、発災から3時間後であった。その後広域避難場所の駒沢公園
(作業途中か?)
⑩神奈川?海老名市
東名高速
海老名SA付近
震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月4日(日)深夜3時30分。彼女との旅行中。大阪に向かう夜行バスに乗っていた。席がいっぱいになっていて、ほとんどの乗客が眠っていた。バスが海老名SAを過ぎたころ緊急地震速報が鳴った。運転手さんはバスを左に寄せ、ゆっくりと減速をして停車し、エンジンを切り、バスの窓を閉めた。すぐに揺れが始まり、強い地震が100秒ほど続いた。地震が収まり、周りを確認してみると道路に亀裂が入っており、車が横転しているの見えた。バスはむやみに動けない状況になってしまっていた。バスの中は乗客たちがざわざわしていて、これからどうなるのか不安になっており、落ち着きが亡くなっていた。運転手さんはバス会社に連絡を取り慌てふためいている。その様子がさらに乗客を不安にさせた。
地震発生から15分後、運転者さんがこれからの説明を始めた。バスで移動することは不可能なのでこのまま朝になるまでバスの中で待機し、約3km歩いて戻って海老名SAに避難するという説明をした。乗客はそれに従うことにした。朝6時、バスを出た。あたりには瓦礫が散乱していて、歩くのがとても大変だった。海老名SAに着いたら、おおぜいの人が避難してきており、地震の怖さがわかる。コンビニは食品など全部売れ切れており、トイレは使えるところが限られていたので、長蛇の列が出来ていた。スマホも充電が出来ず、家族に連絡もできなかった。
?静岡?静岡市
東海道新幹線
新富士~静岡間
震度5弱以上
(緊急地震速報)
8月13日(水)11時15分頃。
夏休みを利用して大阪旅行に向かう途中、私は東海道新幹線「ひかり号」に乗っていました。新富士駅を出発し、静岡駅まであと10分ほどというところでした。 友人と並んで座っており、窓の外を眺めていたとき、突然スマートフォンが大きな警報音を鳴らしました。「緊急地震速報」です。
 周囲でも一斉にスマホが鳴り、車内に緊張が走りました。「地震!?」と思った直後、新幹線が急停車。停車と同時に、ものすごい横揺れが始まりました。揺れはこれまでに経験したことのないほど強く、座席に必死でしがみつきました。荷物棚からカバンが落ちる音、車内放送での「身を低くしてください」というアナウンスが重なり、パニック寸前でした。揺れは1分近く続いたように感じました。収まったころには車内は騒然。車掌が「安全確認中」と繰り返し放送していました。電気はついていましたが、ネットはまったくつながらず、情報が入ってきませんでした。座席でじっと待つしかありませんでした。
しばらくして、X、旧Twitterで「南海トラフ巨大地震発生、震源は東海沖、マグニチュード9.1、静岡県沿岸に大津波警報発令」というニュースをめにしました。車内でも「津波…大丈夫なのか」と不安そうな声が上がりました。
新幹線は高架上で停止しており、線路から降りることもできず、車内に留まるよう指示されました。外を見ると、遠くに黒煙がいくつも上がっているのが見えました。静岡市内のどこかで火災が起きているようでした。

正午頃、車内放送で「この列車は当面、ここで待機。線路の被害状況を確認中。降車はできません」との案内がありました。品川駅で買った駅弁と水を持っていたのが、今となっては本当に助かりました。13時過ぎ、JR東海からの情報で「線路の一部損壊、運転再開の見通し立たず、徒歩での避難誘導準備中」という発表がありました。外に出られる準備をするよう求められ、リュックを背負い直しました。しかし、地上に降りるにも高架からの避難経路確保が難しく、結局車内で数時間待機することになりました。
15時頃、徒歩で静岡駅に向かうための避難誘導が始まりました。線路脇に設置された仮設階段を使って地上に降りましたが、アスファルトには亀裂が走り、道路も波打つように盛り上がっていました。歩きながら、建物の一部が崩れた様子や、冠水した場所をいくつも見かけました。静岡駅にたどり着いたのは16時半ごろ。駅は停電し、暗く、人であふれかえっていました。案内板も機能しておらず、情報を得る手段はありませんでした。駅前では、自衛隊の車両が集結し、避難所への誘導が始まっていました。私は友人と相談して、近くの小学校に設置された避難所に向かいました。避難所では、毛布と水、わずかなビスケットが配られました。備蓄品が圧倒的に足りず、1人分の飲料水はペットボトル半分だけ。トイレは使えるものの、断水しており、簡易トイレが設置されていました。携帯はほとんど繋がらず、家族に「無事」とだけ送ったLINEもなかなか送信されませんでした。
夜になり、避難所の体育館に雑魚寝する形で横になりました。周囲では「津波で自宅が流された」「家族と連絡が取れない」と泣き崩れる人もいました。明かりもほとんどない中、揺れの余震を何度も感じながら、不安な一夜を過ごしました。

 

観劇?テーマパーク?スポーツ観戦?屋外活動中に大地震に遭遇
?千葉?浦安市
劇団四季
想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
4月29日(火)13時半頃、学校自体は授業日でしたが火曜日の授業はそもそも入れていないので休みで、しかもゴールデンウィークなので家族全員で舞浜まで劇団四季を見に行きました。公演が始まる前にあらかじめマナーモードにしておきました。公演が始まって1時間ほどしたところで、突然あちこちから緊急地震速報が聞こえました。マナーモードは緊急地震速報が鳴る設定のようです。大きい揺れが起こり、公演は一旦中断となって係員の誘導に従って外へ避難しました。海辺の街であるので、津波の心配があり怖かったです。最近南海トラフの注意喚起が多いので、海辺に行くこともあり飴などの簡易的な食料は持ってきていたので、周囲の人から見えないように取り出して食べました。地震発生から10分ほど経ちましたが、ディズニーランドは海抜5メートル程のところにあるのでパーク内にいるのが安全であり、東日本大震災の時のように神対応をしているのでしょう人が外へ溢れてくる様子はありませんでした。

イクスピアリ内は店を一旦出てきた人で溢れており、大混乱でした。さっそく成城石井へ行きましたが中は食料を求める人でごった返しており、うんざりしたので飴で耐え忍ぶことにしました。地震発生から20分ほどして、津波の心配はないが浸水や液状化現象の心配があることが分かったので、とりあえず最上階の4階まで登り安全にしました。その日はイクスピアリで友達もバイトをしていると知っていたので友達の安否が気になったのですが、電波が弱くLINEが使えなかったのでただ祈るばかりでした。電車は運転見合わせで数時間止まることが予想されたので、帰宅は諦めました。すると劇団四季の劇場の方から、ロビーや劇場内で横になっていいと言っていただけたので、今晩はそこで一夜を明かすことにしました。
?東京?浦安市
TDL
想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
2025年8月2日。この日は夏休みだったので、高校の部活のメンバーで、東京ディズニーランドに行きました。ビックサンダー?マウンテンに並んでいたところ、スマホから緊急地震速報を知らせるブザーが鳴りました。並んでいた人はみんなパニックになっており、キャストが落ち着くよう指示をしていました。揺れはとても大きく、一分以上縦揺れが続きました。ようやく揺れが収まってあたりを見渡したところ、看板やキッチンカーが倒れており、地震の強さがいかにすごかったかがわかるほどでした。また、この日は夏休みだったということもあり、子供連れで来場している人が多く、子供の泣き声も多く聞こえました。僕は家族の安否を確認したかったので、電話をしようと思ったけれど、みんなが電話を使っていたので、なかなかつながりにくい状態でした。この後どうしようかとみんなで考えていると、「津波の可能性がある」というアナウンスが流れました。パークにいた人はさらにパニックってしまいました。キャストはゲストの人たちに避難誘導していました。
大きな地震だったため、多くの電車が運転見合わせとなり、多くの人が家に帰れなくなり、パークから出られなくなってしまいました。
だんだんと空が暗くなってきて、海風が強くなり、気温が低下してきました。薄い長袖では少し寒い感じでした。あたりにいる子供たちはさむがっていました。トイレは使えるところが限られていたので、男女ともものすごく混んでいました。
僕は家族に一刻も早く会いに行きたかった。なぜなら、僕が住んでいるところは木造住宅が密集している地域なので、ちゃんと逃げれているかとても心配していました。僕は、とりあえずキャストから支給された防災食や毛布で夜を明かしましたが、家族のことが心配でなかなか寝付くことができませんでした。
?大阪?堺市
大浜だいしん
アリーナ
震度不明
(津波警報発表)
 
10月21日(火)11時。大阪府の大浜だいしんアリーナにて卓球の大会が行われています。試合が始まり二階の観客席から応援をしているときに大きな揺れが起きました。試合は中断して身の安全を守るよう場内アナウンスが響き渡っています。フェンスや三脚が倒れ、フロアにある卓球台も動いて会場は混乱に陥っています。揺れが大きくて立っていられないため、しゃがんでとりあえず頭を守ります。揺れ始めてからおよそ10秒後に緊急地震速報が鳴りました。
それから10秒後に揺れが収まり、アリーナの外の大浜公園に避難するようアナウンスが流れました。非常口から外へ出ようとしますが、この日は大規模な大会の初日であったので会場にいる人数が多く、なかなか外へ出られません。LINEで会場にいる部員や監督と連絡を取ろうとしましたがメッセージの送受信がスムーズにいかないため、周りを見渡して部員や監督を探しつつ近くにいた数人と合流してどうにか外へ出ることができました。
会場にいるチームメイト全員と合流できないまま地震発生からおよそ5分経ち、津波警報が発表されました。大会会場が海のすぐそばということもありさらに不安や恐怖が募りましたが、とにかく遠くへ逃げるしかないので周りの人が進む方へ走って移動しました。初めてきた遠征先であり、この地域のハザードマップの確認もしていなかったのでただ周りの人について行くしかありません。室内用のシューズのままひたすら走って逃げました。その道中では崩壊した建物、切れた電線、倒れた木などが見られ、所々で火事も発生しています。自動車のクラクションの音も響き渡っていて道路も渋滞しているようです。
大きな道路ではなく住宅街の中にある道を海とは反対方向に走ったり歩いたりを繰り返して時々大きな揺れに見舞われながらも1時間20分ほどかけて大仙陵古墳の近くにある大仙公園へ避難し、ハザードマップ上の津波注意ラインの外側へ逃げることができました。この公園は広域避難所に指定されていて多くの人であふれかえっていました。ここでもチームメイト全員と合流することはできません。LINEを通じて連絡を取って全員無事に避難できたという確認が取れ、幸運にもみんな大仙公園の方に避難してきていたので、その公園の隣にある堺市立大仙小学校の正門で合流することになりました。この小学校は地震時に津波を伴う際にも開設される指定避難所でした。
大仙公園到着から30分後にチームメイト全員と合流できました。体育館へ向かいましたが人が多すぎて入れそうになかったので校舎へ向かい、どうにか中に入ることができました。避難所に着いて一段落したので、各自家族と連絡を取りお互いの安全を確認しました。最初の地震発生時から大小さまざまな地震が続いておりこの場にとどまるほかなかったので、チーム内で水をもらう人、食料をもらう人、毛布をもらう人、段ボールをもらう人、トイレの場所を確認する人などに分かれて避難生活の準備をしました。また、地震発生時に試合をしていた選手たちは補食や飲み物をもっていたのでそれをみんなで分けて、避難所でもらった非常食にプラスしました。
?大阪?住之江区
南港ATCホール
想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月18日(日)今日はイベント参加のため、夜行バスで日帰り大阪に来た。会場は大阪南港のATCホール。早速列にならんで入場を待っている。楽しみだ。 12時になって入場が始まって列が動き始めた。自分の列も、会場に入っていく。そんな時だった。 午後12時04分。突然、会場全員の携帯が一斉に鳴り出す。緊急地震速報だ。おっと思い身構えた直後、間髪入れずに大きな横揺れに襲われる。列をなしていた人は皆身動きが取れずにうずくまる。自分も立っていられずその場に倒れこんでしまった。立たなきゃと思い起き上がろうとすると、後ろの人がこちらに倒れてきて起き上がれなくなってしまった。どうしようかとあたりを見渡すと、天井のプレートがゆらゆら動いているのが見えた。危ない——と思ったとき、すぐ横に天井板が次々と落下してきて、とっさに頭を手で覆って伏せた。間髪を入れずに会場の照明がすべて消え、あたりは薄暗くなる。停電だ。揺れは長い。 10分ほどたっただろうか。やっと揺れが収まる。係員の人が、どよめく会場を落ち着かせ、けが人の有無や施設の損壊状況を確認している。自分はケガもなかったので、スマホで情報を確認しようとしたが、なかなかつながらない。そうしていると、会場の端のほうから怒声とうめき声が混じったような声が聞こえてきた。どうやら会場の端の、入場ゲートに近いほうで群衆雪崩が起こったらしい。数十人単位のもののようで、すぐには収拾しなそうだ。地震発生から3分、これではすぐには逃げられないな???そう思っていると、外からサイレンのようなものが聞こえてくる。そのタイミングで、館内放送が入った。紀伊半島沖で巨大地震。この場所の震度は6強。建物自体には大きな被害はないものの、大阪沿岸に大津波警報が発令されたそうだ。大阪港の推定津波高さは5m。ただ、幸いにもこの辺りはほとんど津波をかぶらないらしい。ホット一安心する。
念のためということで、ホールの屋上に来場者を誘導する流れになった。地震から25分が経って、自分の列がホールの屋上へ誘導される。自分は、屋上の端のほうに案内された。 午後16時50分。早く南港エリアから逃げたいが、なかなか外へ出してもらえない。ニュートラムや中央メトロは動いておらず、海底トンネルも浸水のため通行止め。出してもらえないというよりも、これでは出れない。完全に孤立している。後で知ったが、南港全体が液状化で大変なことになっていたようだ。 午後18時。係員の人が、救援物資を配りに来た。飲み物は少なく、イベント参加のために昼飯も抜く予定だったので食料をほぼ持っていなかった自分にとっては本当にありがたいものだった。中身はカロリーメイトのような栄養食品と、備蓄水。ゆっくり食べた。上下水道が止まっているようで、お手洗いは倉庫にしまってあった仮設トイレを無理やり使っているようだ。 午後22時。地震発生から10時間が経った。自分はまだATCホールから動けずにいる。南港はまだ孤立している。トンネルは無理でも、橋はさすがに使えるのではないか?と思ったが、市内は大混乱でバスは捕まらず、外に出れない状況だ。本当はこの後、大阪駅からサンライズに乗って翌朝の朝そのまま1限に出る予定だったが、これでは厳しそう。そう思っていると、館内放送が入る。内容は、今日中に南港から出る見通しが立たないため、ATCホールの一部区画と、そこに入らない分はすぐ隣の大阪府咲洲庁舎や港に停泊していた旅客船で船体?施設ともに生き残ったものに移って夜を乗り切る方針になったそうだ。 午後11時になる頃、自分はさんふらわあの1隻に案内され、そこで夜を明かした。スマホの充電は切れかけていたが、モバイルバッテリーを持っていたので充電には困らなかった。とりあえず親や友人に連絡する。なかなかつながらなかったが、なんとか連絡できた。午後11時45分、やっと床に就く。明日は帰れるといいな。
翌朝7時40分、船内放送で目が覚める。どうやら停電の解消と安全確認の完了で、トラムが動き出したらしい。帰れるならと、自分も準備して外に出る列にならぶ。桟橋から外を見ると、駅のほうに向かって長蛇の列が延びていた。外は液状化で大変なことになっている。道は水浸し、マンホールは大きく飛び出し、仮設トイレは倒れ、横を通ったコンビニの店内はめちゃめちゃになっていた。一方列のほうは、トラムに人が集中しているのだろう。なかなか動かない。1㎞以上にもなる列をじわりじわり進んでいき、ようやく駅にたどり着いた。
午前9時15分。ついにトラムに乗ることができた。ここからはひとまず大阪駅を目指す。 午前11時半。地震による帰宅困難者の集中もあって、大阪駅までたどり着くのにかなりの時間がかかってしまった。東京方面に帰りたいが、地震と津波の影響で新幹線も電車も動いていないか、動いていても乗れそうにない。仕方なく、方向性を変えて、新潟の実家に帰ることにした。
午後12時半、人混みに呑まれながら、ついに新潟?北陸方面のバス乗り場にたどり着いた。バス乗り場は相変わらず長蛇の列だが、東京方面よりかはマシに思えた。
午後18時。やっとの思いで新潟行きのバスに乗った。これで実家に帰り、一泊した後東京へ帰る。地震発生から1日半、ようやく安心することができた。
?徳島?徳島市 震度不明 河川敷で野球をしているときである。佐藤が球を投げようとしたとき地面が大きく揺れる。バランスを崩した佐藤が投げた球は僕の頭部に直撃。僕は意識を失う。佐藤は懸命に僕をたたき起こそうとするが全く起きない。佐藤の選択肢は2つ。ながいを置いていき自分だけ避難するか、ながいと一緒に津波に流されるか。佐藤は決断した。ながいを置いていき自分だけ避難することを。近くには吉野川大橋があり、そこにとりあえず避難することにした。そこからは意識を失ったながいと遠くの方に大きな津波が押し寄せてくるのが見える。僕を置いて行った佐藤であるがまだ僕のことをあきらめていなかった。携帯電話を鳴らし続けていたのである。ありがとう佐藤。僕が意識を取り戻すことはなかった。津波に飲み込まれたながいだが奇跡的に生還。家族と連絡を取ってみると全員無事。よかった。

 

バイト先で大地震に遭遇
?東京?場所不明 震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月4日、私はバイト先の横浜家系ラーメン百屋で働いていた。店内には、8名ほどお客さんがいる。17時からシフトに入り、ラーメンを配膳していた18時20分、突然スマホから地震速報のアラームが鳴り響き、店内が激しく揺れだした。店内の寸胴が倒れ、茶碗もすべて割れた。店内には、下に隠れることのできるほどの大きさの机がないためみな自分のカバンや両手で頭を守った。しばらく強い揺れが続いた。
揺れが収まると店内の人の安否を確認し、全員の無事を確認した。すぐに店内のガスを止め、火事が起こらないようにする。店外に出ると周りの店からもたくさんの人が出てくる。田園都市線が止まり、自宅に帰ることが出来ない人々が多く発生したようだ。用賀周辺に住んでいない人々は避難所に行くようだ。地盤が安定しているため液状化などの被害は出ていない。
店内の安全を確保し、店長の指示で私は近所にある下宿先に帰宅しようと外に出ると、向かいの店の厨房で小火が起きていた。幸いにもすぐに消し止めることができたが、人が避難した後に小火が起こっていたかもしれないと思うとゾッとした。家に帰る途中で家族や友人と安否を確認した。その後、家に帰るとガスを消し、次の地震に備え避難が出来る状態にする。靴を自分のそばに置き、ドアを開けておき、ガラス窓から離れて少し休んだ。地震から3時間が経過していた。避難所は、混雑が予想されるので、家で過ごすことにした。
?東京?渋谷区 震度4~5弱 午後7時15分、渋谷のアルバイト先で働いていました。平日には珍しく、たくさんの人が来店し、店内は満席の状態です。バイト仲間と協力して、レジ対応?配膳?バッシングなどをめまぐるしくこなします。
5分後のことです。お客さんのスマートフォンから、けたたましい警報音が鳴り始めました。それと同時か、少し遅れて、だんだんと揺れが強まってきます。震度4か5弱くらいかな、少し大きいかもしれない、と考えた瞬間、立っていられないくらいの揺れがお店を襲いました。
私が働いている店は、それぞれの卓に焼き台がある、焼肉屋です。ということは、一般的な飲食店より、火災のリスクが高まるのです。歩けるくらいの揺れになったら、「火を消して下さい。」と言って、それぞれの卓を見て回ります。今のところ、水がこぼれた、というような被害はあったものの、何かが燃えているわけではないようです。
しかし、グラスをしまっている棚は大きな被害がありました。ストッパーがないので、棚にある殆どのグラスは床に落ちて、粉々になっています。お皿がたくさんある厨房も、殆どが割れてしまって大変そうです。そのままにしておくと危ないので、ほうきとちりとりで片付けます。
ひとまず、けが人はいないようです。私たち店員は、顔を見合わせて胸をなで下ろしました。しかし、安心したのもつかの間です。「お手洗いが流れなくて。手を洗うところからも出ないんです」と、お客さんから言われました。
確認してみると、確かに、店内のどこからも水が出ません。どこかで水道管が破裂して、断水してしまったようです。仕方なく、店長が、「今日のお代は結構なので、皆様お帰り下さい。」と言いました。
店を出てみると、そこら中に、ビルの窓硝子や看板が散乱しています。地震が起こったときに外にいたら…と、考えるだけでぞっとします。運良くタクシーが捕まえられたお客さんは、タクシーで帰っていきました。その後、そのお客さんが無事に家までたどりつけたかどうかは、わかりません。
お店にいたお客さんの中には、海外から来た観光客の方もいました。
何が起こったかわからない様子で、本当に心配そうでした。スマホがぎりぎり繋がったので、外国人を受けいれている避難所を探して、案内しました。
ひとまず、お客さんを安全なところに移動させることはできました。
まだ余震が続くかもしれないし、そうなったらまた片付けをしなければならなくなるだろう、という店長の声で、私たちはある程度の片付けにとどめて、いったん家に帰ることになりました。
しかし、電車が止まっています。運転再開のめども、今のところ立っていないようです。渋谷の駅は、人がごった返していました。
仕方なく、歩いて帰ることにしました。
帰宅する道中でも、窓硝子が割れていたり、店頭に立っている看板が倒れて粉々になったりしています。けがをしないように、ゆっくり、歩いていきます。幸いなことに、私の家はあまり被害はありませんでした。しかし、コンビニはものがすべて売り切れてしまっていて、あと5日くらいは入荷のめども立っていないようです。仕方がないので、家に備蓄してあった、水を入れるとできるおにぎりを食べました。友達も、家族も、連絡が取れません。みんなが無事なのか心配なまま、1人で夜を明かすことになりました。
?千葉?習志野市 震度5強以上
(津波警報)
5月4日、千葉県習志野市のとあるファッション通販サイトの倉庫でバイトをしていた10時32分。強い揺れを感じた。スマホはロッカーに預けており、作業スペースや休憩スペースを含めてテレビもないため地震の規模や津波の予報などはすぐにはわからない。社員による避難誘導が行われるはずだが、大半が単発バイトできている人のため、避難経路や避難先が分からず、全体的に慌てていて、放送もよく聞き取れず、担当者のところに倉庫や商材の被害情報がひっきりなしに来ているようで放送の内容も曖昧になってしまう。倉庫の立地は埋立地であり、三方を海に囲まれている上、道は一本しかない。基本的にこの倉庫へは送迎バスで来るのだが、一部の車通勤の人が一目散に出て行こうとしているようだが、道が液状化し車の通行ができないようだ。先にロッカーからスマホを取り出せた人から地震の詳細を聞くことができた。どうやら現在地は震度5強を観測し、津波警報が出ているようだ。だが、最寄りの避難所は3キロも先で道は液状化している。そのため倉庫の屋上に避難することになった。屋上はソーラーパネルが置いてあり、全部のスペースは使えない。警報が解除されたとしてもすぐには帰れそうにない状況に恐怖を覚えるとともに、バイト先の立地や避難場所なども踏まえて応募しなかった自分を責めた。
?東京?場所不明 想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月17日土曜日17時46分、バイト先のスーパーで商品の店出しをしていたころ、突然、店にいたお客様のスマホから緊急地震速報を知らせるアラームが鳴りだした。店中は大混乱した。私はお客様に「買い物かごで頭を守ってください」と大声でアナウンスした。そして、その数十秒後、大きな揺れが始まった。店内には商品棚から商品が次々と落ちる音が響き渡った。  揺れが収まると、私は店内にけが人がいないか確認した。幸い、けが人はいなかった。店内の床には多くの商品が散乱し、特に、お酒売り場ではワインなどのビンが床に落ちて割れ、ビンの破片が散らばっていた。店は停電してしまった。しかし、レジは予備のバッテリーが備わっていたため、私はお客様に、今手元に持っている商品だけを会計をするよう促し、もう一人の店員A さんと一緒に会計をした。その後、お客様に早く避難するよう促し、店内にお客様がいないかを確認した。そして、この店舗で事前に作成されていた災害時マニュアルに従い、一旦閉店した。 落ち着いたところで、私はスマホに電源を入れて福岡に住む家族へ「ものすごく揺れたけどケガはしてません。」いうメッセージをLINEで送信した。すると、母から、「安心しました。また何かあればすぐに連絡してほしい」という返信が来た。私の叔母は関東に住んでいるので、そちらにもメールで安否を報告した。そして、スマホで調べると、ネットニュースの速報で、今回の地震で東京は震度7を観測したと伝えられた。店長は本部に電話をしているが、停電のため依然としてつながらない様子である。 早く店の営業を再開するために、私は店長とAさんとともに店内を片付け始めた。しばらくすると、店舗の近くに住んでいる店員のBさん、Cさん、D さんが手伝いに来てくれた。  皆で店内の片づけをしていると、店の外がやけに騒がしかったので確認すると、店の入り口に大勢の近隣住民が押し寄せ、長蛇の列が並んでいた。そして、お客様から店を開けるよう大声で要求された。Bさんがお客様に「店内は商品が散らばり、ガラスの破片も散乱していて危険であるため、今はお客様を店内へ案内することはできない」と伝えてくれた。そして、私は「店内はものが散乱しているため片づけ中、終了次第営業を再開します」と紙に書き、店のドアに貼った。 30分後、店内の片づけが終了し、営業を再開した。店には一気に多くの人が入ってきた。食料品はあっという間になくなり、棚は空になった。何人ものお客さんから在庫はないかと尋ねられた。3時間後、レジの災害時用バッテリーの残量が0になったため、閉店時刻前であったが店を閉めることになった。閉店の作業を終え、私はやっと帰ることができた。
 バイト先の最寄り駅である用賀駅に着いたが、田園都市線は運転見合わせであった。駅のタクシー乗り場には長蛇の列ができており、改札前は帰宅困難者であふれていた。幸い、私の自宅は用賀駅から6キロほど離れたところにあり、徒歩で帰ることができる距離であるので、疲れていたが仕方なく家まで徒歩で帰った。
?東京?世田谷区 想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
5月17日土曜日17時46分、バイト先のスーパーで商品の店出しをしていたころ、突然、店にいたお客様のスマホから緊急地震速報を知らせるアラームが鳴りだした。店中は大混乱した。私はお客様に「買い物かごで頭を守ってください」と大声でアナウンスした。そして、その数十秒後、大きな揺れが始まった。店内には商品棚から商品が次々と落ちる音が響き渡った。
 揺れが収まると、私は店内にけが人がいないか確認した。幸い、けが人はいなかった。店内の床には多くの商品が散乱し、特に、お酒売り場ではワインなどのビンが床に落ちて割れ、ビンの破片が散らばっていた。店は停電してしまった。しかし、レジは予備のバッテリーが備わっていたため、私はお客様に、今手元に持っている商品だけを会計をするよう促し、もう一人の店員A さんと一緒に会計をした。その後、お客様に早く避難するよう促し、店内にお客様がいないかを確認した。そして、この店舗で事前に作成されていた災害時マニュアルに従い、一旦閉店した。
落ち着いたところで、私はスマホに電源を入れて福岡に住む家族へ「ものすごく揺れたけどケガはしてません。」いうメッセージをLINEで送信した。すると、母から、「安心しました。また何かあればすぐに連絡してほしい」という返信が来た。私の叔母は関東に住んでいるので、そちらにもメールで安否を報告した。そして、スマホで調べると、ネットニュースの速報で、今回の地震で東京は震度7を観測したと伝えられた。店長は本部に電話をしているが、停電のため依然としてつながらない様子である。 早く店の営業を再開するために、私は店長とAさんとともに店内を片付け始めた。しばらくすると、店舗の近くに住んでいる店員のBさん、Cさん、D さんが手伝いに来てくれた。
 皆で店内の片づけをしていると、店の外がやけに騒がしかったので確認すると、店の入り口に大勢の近隣住民が押し寄せ、長蛇の列が並んでいた。そして、お客様から店を開けるよう大声で要求された。Bさんがお客様に「店内は商品が散らばり、ガラスの破片も散乱していて危険であるため、今はお客様を店内へ案内することはできない」と伝えてくれた。そして、私は「店内はものが散乱しているため片づけ中、終了次第営業を再開します」と紙に書き、店のドアに貼った。 30分後、店内の片づけが終了し、営業を再開した。店には一気に多くの人が入ってきた。食料品はあっという間になくなり、棚は空になった。何人ものお客さんから在庫はないかと尋ねられた。3時間後、レジの災害時用バッテリーの残量が0になったため、閉店時刻前であったが店を閉めることになった。閉店の作業を終え、私はやっと帰ることができた。
 バイト先の最寄り駅である用賀駅に着いたが、田園都市線は運転見合わせであった。駅のタクシー乗り場には長蛇の列ができており、改札前は帰宅困難者であふれていた。幸い、私の自宅は用賀駅から6キロほど離れたところにあり、徒歩で帰ることができる距離であるので、疲れていたが仕方なく家まで徒歩で帰った。

 

旅行先で大地震に遭遇
?静岡?焼津市 想定震度5弱
(緊急地震速報)
 20xx年1月上旬、私は静岡県焼津にいる。この日は大井川鉄道のSLに乗車したのち帰りがけに名物の桜えび丼でも食べて帰ろうという算段だ。これから夜も更けていくが、車で来ているので道中のサービスエリアで仮眠をとりつつ帰ろうか。午後7時半を過ぎた頃、丼を食べ終えてさて帰ろうかという時だ。突然携帯がけたたましいアラーム音を鳴らす。周りの客も同じような音を携帯から鳴らしている。画面を見ると緊急地震速報が表示されていた。
『震度5弱』今いる静岡県の予想震度が記されている。震源はどこだ?そんなことを考えると同時に店内が揺れ始める。P波の到達だ。照明が揺れテーブルの食器もガタガタと音を立てる。この感覚はいつぶりだろうか。幼少期の記憶が呼び起こされる。テーブルの下にもぐりつつ携帯の画面を確認しようとする。大きい揺れの中なんとか震源を確認する。悪い予想が当たった。
?静岡?場所不明 想定震度5弱以上
(緊急地震速報)
和歌山沖M8.3
2025年7月5日午後6時37分、和歌山県南方沖を震源とするM8.3の地震が発生。当時私は静岡県のとある市内のホテル3階に滞在していた。携帯が激しく鳴り、スマートフォンを手に取ったと同時にまるで部屋自体が移動しているかのような強烈な揺れに見舞われた。備え付けのテレビやデスクの上の荷物、警報音。それらが混ざり合って飛び交い、自身に襲い掛かる。歩行も困難なほどに揺れは強くなるばかりで私は頭部を守ることしかできなかった。結局揺れは5分以上にわたり続き、停電とエレベータは停止し、混雑する階段を下り、ホテルから出るまでに地震発生から10分が経過していた。しかし、混乱から荷物はほとんど持ち出せず、スマートフォンとモバイルバッテリー、財布のみであった。暗くなり始める街には大津波警報を知らせる防災無線が不気味に鳴り響く。海からは比較的離れていたが付近には河川が流れていたため、最寄りの高いビルに避難することにした。あわてて逃げる人々もいるが中には家へ一度荷物を取りに向かう人も見られた。2日前にも震度5弱を観測する地震があり、その際も津波注意報が発令されたが被害はなく、津波を軽んじる人々が多かった。道中、塀が崩れ通行不可な道を迂回し、発生から18分経過しようやく目的地に着いた。ビルを登り、別の避難者が持ち寄ったラジオでようやく被害の大きさを知る。すでに和歌山県では津波が到達していた。海岸方面を見ると、鼠色の海に連なる白い線がかすかに見え、すぐそこまで迫っていた。地震から20分もたたないうちにそれらは海岸線に到達し、みるみるうちに住宅を飲み込んでゆく。海岸から1.5㎞程離れている滞在していたホテルも飲み込まれた。また、川を遡上した波があふれ始め、海から離れた場所でも浸水がはじまる。停電に日が沈んだことで辺りは真っ暗になりどこまで波が来ているかも確認が難しくなった。火災によりぼんやりと浮かぶ波と瓦礫の姿が現実感を薄れさせる。幸い自身のいる高さまで波は来なかった。21時ごろには波が引いていたがそれには気づかなかった。22時13分、再び携帯が鳴り大きな揺れに襲われる。今度は高知県沖を震源とするM8.1の地震が発生。連絡が取れず、ラジオとスマホからわずかな情報を集めながら不安な夜が過ぎ、日が昇ると景色は一変していた。

 

自宅などで大地震に遭遇(建物倒壊に巻き込まれたなど)
?東京?世田谷区 震度不明 南海トラフ巨大地震が2030年4月28日午前9時頃、東京都世田谷区の自宅にいると想定します。世田谷区内の住宅地にいるときに地震が発生しました。
最初に強い揺れを感じ、家の家具やガラス窓が大きく揺れ動きます。家の中では、テレビや食器類が倒れ、電気やインターネットも一時的に遮断されました。窓ガラスにはひびが入り、古い家具が倒れているのが見えます。
外に出ると、道路や歩道にひび割れや陥没の跡が見え、周囲の建物も揺れの激しさにより倒壊の危険があるため、近くの公園や広場に避難します。周囲には震災の混乱で道路をふさぐ瓦礫や倒れた電柱もあり、道路は通行止めとなっています。この地震の影響で、ライフラインは停止し、救助や支援活動に時間がかかることが予想されます。そのため、身の安全を第一に、多くの人々が落ち着いて行動し、インターネットやテレビの緊急情報を確認しながら、救援を待つことが大切です。
?東京?場所不明 震度不明
(建物倒壊)
(地震前)西暦2025年 9月18日 木曜日 午後3時 曇り→今日も普通に授業を受けている。曇りの日ですが時々太陽が出てくる。後期授業が始まったばかりで、いまでも夏休みの気分だった。窓外をみながら適当にノートを書いている。平凡な1日ともいえるでしょう。
(地震前)西暦2025年 9月18日 木曜日 午後6時 曇り→夜飯は大好物のかつどん食べた。コーラと一緒に最高!
(地震発生)西暦2025年 9月18日 木曜日 午後6時35分 曇り→急に周りが静かになってきた。車が運転する声、人の喋り声、まさに誰かが静音ボタンを押したみたいに、全部きこえなくなった。鳥肌がたった。全身が急に悪寒が感じられ、嫌な予感が矢印のように、私の心臓に刺しこんだ。 急激な揺れがきった。まるでダンスホールに入ったように。ほんの一瞬、天井が崩れて、電気も切れた。慌ててなく落ちた石に頭にぶつかって、意識を失った。
(地震後)西暦2025年 9月19日 金曜日 朝?時?分 雨 →私は全身の激痛を耐えて目覚めた。周りは廃墟だらけ。時々誰かの声が聞こえる。散々だった。足が動けない。血が目線を曇らせた。砕石が私を囲まれ、頭上にあるちいちゃい穴から光と雨水が入った。
(地震後)西暦2025年 9月19日 金曜日 朝10時18分 雨→救援隊がついに私を廃墟の中から救い出した。ヘレコプターの上に見ると、町がほぼ海水に埋められた。私が夜飯を食べていた店は5階にあるからセーフ。どうやら昨日の大地震が津波をもたらしたようで、東京の半分以上は全部津波に遭難された。
?静岡?沼津市 南海トラフ巨大地震M9.0以上 2025年8月1日、僕は大学2年の夏休み、実家に帰省していました。お昼の12時、家族とそうめんを食べていた途中にそれまで流れていたヒルナンデスの番組のテロップから人間が一番聞きたくない音とともに、緊急地震速報のテロップが出ました。時を同じくして、家族全員のスマホから「ブーブー」と嫌なアラームが流れとっさに画面を見ると……。
「くそ」「遂にきやがった」誰もがその瞬間南海トラフ巨大地震が来たと直感した。家族は日テレからNHKに切り替え、わずかな時間でも情報を集めようとした。すぐさま全員テーブルの下に身を隠し最初の揺れに備える。
12時04分、激しい揺れ(のちの調査で震度6弱)が我々を襲うと同時に、食器棚が倒れはじめ、本が落ちていく。約3分後の12時07分に、一瞬揺れが収まり、家族全員で靴下を履きスマホだけ持ってリビングを飛び出した。階段を駆け降り、玄関を出ようとしたとき、思いもよらぬ事態が。それは、いつも玄関の前に止めてある煮貝の自転車が倒れそれが引っ掛かったことで出られなかった。
~市の無線放送が鳴り響く~
家の窓から出ることにした。するとお隣さんたちも一斉に外に飛び出していく。
ところが私たちの左隣に住んでいる老夫婦のご主人がガラスで足を切って歩けないとのこと。
母と双子の弟は「他人のことなんて気にしている余裕はないから今は自分の命を守ることだけを考えな」と言い逃げようとした。
しかしながら僕はおんぶして一緒に逃げた方がいいのではないかとぎりぎりまで悩んだ。迷っていた。それは逃げたい気持ちがあったから。私はたまたまポケットに入れていたハンカチでおじいさんの左足をぐるぐる巻きにして傷口をふさぎ、一緒にまずは公民館へと走った。12時23分それから、公民館でヘルメットをあるだけ出して全員で大岡小学校を目指そうという話をして周囲の安全確認と危険な場所からはなるべく離れるように道の真ん中を歩くようにして大岡賞を目指した。ぺしゃんこの車、折れた踏切と電柱、崩れるブロック塀。大岡小学校を目指している中で一つ後悔したのは授業で使ったハザードマップを持ってこなかったということだ。
私は「焦り」と「判断力」の低下から、せっかく活用する機会、それも一番大事な時に。たったこの一回それを逃した。日々の防災知識や関心がどれほど大事なのか思い知らされた。
13時00分。大岡小学校につくと数えきれない人がグラウンドに集まり余震に耐えながら安否確認を行っていた。とある住民は主体的に学校に貯蓄している保存水と乾パン、レトルト食品を取りに建物に入り、仮設用トイレやテントを持ってきて組み立てている人もいた。この辺は毎年行っている防災訓練が生きた結果なのか比較的に早い段階でできていた。
我々はここから避難所生活を余儀なくされることになる。